エリザベス一世
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 エリザベス一世@映画の森てんこ森
エリザベス一世
エリザベス一世
2005年11月24日木曜日 「シャイな幸の独り言」トップへ
 今日2005年11月24日(木)、昨日23日勤労感謝の日で外出や会社休みの為少なかったアクセスが、いつもより全般的に多い。特にどういうわけか幸の映画レヴュー『 エリザベス (1998) ELIZABETH 』が色々なところからアクセスがある。2005/11/12公開の『 エリザベスタウン (2005) ELIZABETHTOWN 』や2005/11/19公開の『 エリザベス・ハーレーの明るい離婚計画 (2002) SERVING SARA 』のミスアクセスではないと思うが、『 エリザベス 』は1998年の古い映画なのにネ。私のページがどこかで紹介されたのかしら?

 まあ、理由は今は分からないので後で調査するとして、先に、以下にエリザベス一世の調査した記事を書く。※幸の勝手な解釈ですので、勉強不足のため間違いや適切でない表現があるかも知れませんので、又本ページについての質問にはお応えできませんので予めご理解・ご了承くださいますように。
【 エリザベス一世 】
■エリザベス一世の調査#00 ヘンリー8世(在位 1509-1547)
■エリザベス一世の調査#01 エリザベス一世(在位 1558-1603)
■エリザベス一世の調査#02 エリザベス 王位を継承
■エリザベス一世の調査#03 エリザベス 宗教問題の解決
■エリザベス一世の調査#04 エリザベス 映画との違い(1)
■エリザベス一世の調査#05 エリザベス MI6の源流ウォルシンガム
■エリザベス一世の調査#06 エリザベス 映画との違い(2)
■エリザベス一世の調査#07 エリザベス 治世の繁栄
■エリザベス一世の調査#08 エリザベス 時代の外交的脅威
■エリザベス一世の調査#09 エリザベス スペイン艦隊を破る
■エリザベス一世の調査#10 エリザベス 経済不況
■エリザベス一世の調査#11 エリザベス 選択と決断
■エリザベス一世の調査#12 エリザベス 死す

■エリザベス一世の調査♯00 ヘンリー8世(在位 1509-1547 )
【エリザベス一世の調査 第01段落】 ヘンリー8世(在位 1509-1547 )
  エリザベスの父ヘンリー8世は、 1509 年に彼がイングランド王となるとすぐに、自分の兄弟の未亡人であったキャサリン・オブ・アラゴン(メアリー一世の母)と結婚する。彼の最初の宰相、T. ウルジーは、 1515 〜 1527 年の間、国政をほとんど完全に動かしていた。 1527 年に、ヘンリーは侍女のアン・ブーリンと結婚するためにキャサリンとの離婚を求めたが、法王クレメンス7世は結婚の解消を否定した。アンは子供時代を一部フランスで過ごした後、ヘンリー8世の宮廷につかえ、王を愛するようになった女性だ。彼女は最初の妻から王を奪うために、こっそりと行動に出る。ウルジーはヘンリーを救うことができなかったために、職を追われた。新しい宰相のT.クロムウェルは、 1532 年に英国国教会がローマからの離脱を決定した時に、革命に始め、 1533 年にヘンリーにアンとの結婚を許した。新しい大主教、T. クランマーは最初の結婚の解消を宣言した。アンとの間に、すぐに娘のエリザベスが生まれた。
【エリザベス一世の調査 第02段落】  英国国教会の長となったことは、ヘンリーの主な業績であるが、広範囲の結末をもたらした。ヘンリーは嘗てローマ法王の権威に深い忠誠心を持ち、 Defender of the Faith (信仰擁護者)の称号を受けていたが、破門され、新しく独立した教会というものを据えなければならなくなった。 1530 年代には、特に王への僧院の富の移転と新しい聖職者への税によって、彼の権力は非常に拡大した。しかし、学識のある男という彼の当初の評判は、血の男という不変の名声にかき消されてしまった。新しい命令に背いたものが多く殺された。

【エリザベス一世の調査 第03段落】  男の子を産まなかったアンへの興味が薄れ、王は 1536 年に彼女を姦淫の罪で処刑した。ヘンリーはすぐに3人目の妻ジェーン・シーモアと結婚し、エドワード6世をもうけるが、彼は幼いうちになくなってしまう。三年後、クロムウェルにそそのかされ、王はアン・オフ・クレーヴズと4回目の結婚するが、彼は彼女を憎み、素早く離婚を要求する。そして 1540 年にクロムウェルを打ち首にした。

【エリザベス一世の調査 第04段落】  ヘンリーは途方もなく太って不健康になるばかりでなく、だんだん誇大妄想狂になっていく。 1540 年、5人目の花嫁となるキャサリン・ハワードと結婚するが、 1542 年、アン・ブーリンの従姉妹である彼女も姦通で打ち首になる。1542年に王はスコットランドと戦争を行い、財政難に陥る。 1543 年、彼より長生きした最後の妻、6人目のキャサリン・パーと結婚する。ヘンリー8世の死で、彼の息子であるエドワードに王位が引き継がれた。

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■エリザベス一世の調査♯01 エリザベス一世 
【エリザベス一世の調査 第05段落】 エリザベス一世 ELIZABETH I (在位 1558-1603)

エリザベス (1998)
ELIZABETH

ポスター:Nostalgia.comより引用
 チューダー王家最後の君主であるエリザベス一世は、 1533 年9月グリニッチで生まれた。彼女はヘンリー8世と王の2人目の妻アン・ブーリンの娘である。エリザベスの幼い頃は不穏な状態が続き、異母弟のエドワードが 1537 年に生まれるやいなや、彼女の王位継承の可能性は殆どなくなったかのようだった。ローマ・カトリック教徒である異母姉のメアリー王女に次いで、エリザベスの王位継承権は第三位であった。確かにローマ・カトリック教徒は、プロテスタントのエリザベスを異端だとみなしていたが、1554 年にメアリー一世に対する反乱(トマス・ワイアットの乱)が失敗した直後は、彼女は辛うじて処刑を免れた。イングランドにカトリックを復興させたメアリー一世は、映画でもエリザベスを憎んでいたが、それも当然かなと思う。メアリー一世は、プロテスタントであった父ヘンリー8世が母と離婚し、新しい妻アン・ブーリン(それも侍女)を迎えたことで、嫡出でないことを宣言された。「ブラッディー・マリー」というニックネームが付けられるほど、激しく新教徒を迫害したのも、そんな苦い思い出があるからかもしれない。
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■エリザベス一世の調査#02 エリザベス一世 王位を継承
【エリザベス一世の調査 第06段落】  1558 年 11 月、エリザベスは異母姉メアリー一世の死亡で王位を継承した。彼女はとても教養が高く(6ヶ国語に堪能であった)、両親から知性、決断力そして抜け目のなさを受け継いでいた。彼女の 45 年の治世は、イギリスの歴史において最も輝かしい時代の一つだと一般的に考えられている。その間に英国国教会が確立され、ローマ・カトリック教と新教との中道化路線を表明した 1563 年の三十九ヵ条で、その教義が制定された。エリザベス自身は「 make windows into men's souls つまり、唯一の神が存在し、その残り全てはつまらない事の論争である」ということを拒絶した。彼女は表面的な画一性を求めていた。国民の殆どがその信仰の基本として英国国教会の中道化を受け入れた。彼女の教会との和解は、 16 世紀の後半にフランスを悩ませたような宗教戦争から、イングランドを救っただろうと思われる。

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■エリザベス一世の調査#03 エリザベス一世 宗教問題の解決
【エリザベス一世の調査 第07段落】  宗教問題の解決について、映画では 1559 年の「 The Acts of Supremacy and Uniformity 」が英国議会で可決されるシーンがある。この法案で、教会の統制が君主体制に返還され、穏健派たちの賛成した改訂が付けられた二番目の祈祷書が採用されることになった。 the Eucharistの儀式を聖体拝領(旧教)とも聖餐式(新教)ともとれるままにし、カトリック教会の装飾は再び取り付けられた。日曜日に教会へ行くことは強制され、「 recusants 」と呼ばれた出席できなかった人々は、欠席ごとに1シリングの罰金を支払うことになった。これらの法律を支持するために誓いが立てられ、そうすることを拒んだ主教はその地位を剥奪されたそうだ。

【エリザベス一世の調査 第08段落】  独裁的で気まぐれであったけれども、エリザベスは抜け目のない政治的判断をもち、大臣達をうまく選んだ。国務長官のバーリー(ウィリアム・セシル)、大法官(最高の司法官;閣僚で上院議長)のハットン、諜報機関と国務長官担当のウォルシンガムといった面々である。概して、エリザベスの政権は、国の役所を切り盛りする役人と、国王の領地(行政費用を助成していた)を扱う役人、それぞれ約 600 人で構成されていた。地方レベルにおいて、州長官の支配下に残されていた社会的経済的法規と治安は、無報酬の治安判事によって支えられていた。

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■エリザベス一世の調査#04 エリザベス 映画との違い(1)
【エリザベス一世の調査 第09段落】  映画の中では、ウィリアム・セシルはエリザベスよりずっとおじいさんのような感じだったが、実際彼は1520年 9 月 13 日生まれで、エリザベスとは 13 歳しか違わない。それに彼はエリザベスの即位から自身が亡くなる 1598 年まで 40 年間彼女に仕えているので、映画のように引退させられていないと思うのだけど。それにフランシス・ウォルシンガム( 1530-1590 )がセシルから引き継いで国務長官となったのは、 1573 年のことである。映画ではストーリーの構成上、ウィリアム・セシルは古い感覚の政治家のように描かれていたが、本当の彼はもっと時代感覚に優れた敏腕政治家だったように思う。

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■エリザベス一世の調査#05 エリザベス MI6の源流ウォルシンガム
【エリザベス一世の調査 第10段落】  また、現在の MI6 まで繋がるイギリス外交の根幹をなす情報活動を行っていたウォルシンガムは、映画ではとても怪しげな人物のように描かれている。熱心なプロテスタントだった彼は実際、もっとストイックな人だったのではと想像する。ウォルシンガムは国家の奉仕活動に私財を費やしたため、1590 年に貧しく亡くなった。そうしたことで殆ど報酬は受け取らなかったそうだ。1588 年、わずか 1500 名の守備隊しか持たないイギリスが 130 の艦隊と3万の兵員を持つスペインの無敵艦隊を撃退したのは、彼の冷静な分析が徹底された情報のお蔭でもある。その閣議文書を読むと、一種の迫力を感じるそうだ。ウォルシンガムの方が年長のセシルより8年も早く亡くなったのは、スペインのアルマーダの来襲でウォルシンガムが神経をすり減らしたせいかもしれない。映画ではセシルとの間にあまり交流がないようだったが、事実ウォルシンガムは大陸に張り巡らした情報網から得た情報をセシルに伝えていたそうだ。

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■エリザベス一世の調査#06 エリザベス 映画との違い(2)
【エリザベス一世の調査 第11段落】  映画が事実と違うところは、ロバート・ダドリーに関してもあるが、2時間という短い時間でストーリー性を失わずに簡潔に歴史を表さなければならないのだから仕方のないことだろう。映画ではエリザベスはロバートの結婚を知らなかったが、実際は 1549 年の彼とその妻エイミー・ Robsart の結婚式にも出席しているそうだ。 1553 年のエドワード6世の死でロバートの父ジョン・ダドリーは王妃であった義理の娘ジェーン・グレイのために王位を奪おうとしたため、ロバートは兄弟達と共にロンドン塔の the Beauchamp Tower (ここには身分の高い人が入れられたようだ)に入獄される。ワイアットの反乱( 1554 )で the Bell Tower に幽閉されていたエリザベスとこの時逢瀬を重ね、友情から愛情が芽生えたという伝説があるらしいが、厳重な警備の中そんなことはありえないだろう。メアリー一世の治世の間、財政に苦しむエリザベスを、土地を売って支援したというロバートは、エリザベスの即位後、 Master of the Queen's horse という高位の官職につき、女王の寵愛もあって出世する( 1564 年にはレスター伯の称号を得る)。そんなロバートに対して、周囲のやっかみはあったようだ。 1560 年、妻エイミーの謎の死は、ロバートの評判をさらに悪くした。1561年にスペイン王フェリペ二世に対して、自分とエリザベスの結婚を支持する見返りとして、イングランドにカトリックを復権させるという提案をする。しかし、そんなロバートへのエリザベスの個人的な感情は変わらなかった。 1588 年 7 月21日に始まり 30 日に終わったスペイン無敵艦隊の来襲の時に、彼は軍隊の総司令官に任命される。このときすでに胃癌に冒されていただろうロバートは、同年9月4日に亡くなった。彼の死を哀しんだ女王は、彼から最後に送られてきた手紙をずっと宝物にしていたそうだ。

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■エリザベス一世の調査#07 エリザベス 治世の繁栄
【エリザベス一世の調査 第12段落】  エリザベスの治世にはまた、フランシス・ドレーク、ウォルター・ローリー、ハンフリー・ギルバートによる、特に南北アメリカへの多くの勇敢な航海上の発見があった。これらの探検旅行のお陰で、イングランドの植民地開拓と貿易拡大の時代に備えることになり、エリザベス自身は 1600 年に東インド会社を設立した。

【エリザベス一世の調査 第13段落】 エリザベスの治世の間には、芸術が栄えた。 Longleat (維持管理努力の一環として、サファリ・パークや巨大迷路などがある。結婚式だって挙げられるみたい)やハードウィック・ホール(ナショナル・トラストの保護資産)のような地方屋敷が建設され、細密画は頂点を極めた。また、劇場は繁盛し、エリザベス女王はシェイクスピアの「真夏の夜の夢」(映画『 真夏の夜の夢 (1999) WILLIAM SHAKESPEARE'S A MIDSUMMER NIGHT'S DREAM 』)の初演を観劇した。女王の観劇好きは、映画『 恋におちたシェイクスピア (1998) SHAKESPEARE IN LOVE 』でも描かれている。映画「エリザベス」では、エリザベスがヴォルタというルネサンス舞踏をロバートと踊るシーンがある。ヴォルタは 16 世紀初めに農民の踊りとしてイタリアから広がり、スイス、フランス、そしてドイツにまで伝わった。ヴォルタという名前は「回転」を意味している。 1556 年、イタリアン・ヴォルタは Sault 伯爵がパリの宮廷に初めて紹介したそうだ。それから 1581 年ごろ、カトリーヌ・ド・メディシス( 1518-1589 )がヴェルサイユ宮殿にヴォルタを広めた。他の円舞と交じり合ってできたヴォルタは、ワルツの始まりだとか、ワルツの先駆けと言われている。飛び跳ねたり、リフトがあったりと、それまでの時代のダンスよりも快活なダンスであるヴォルタは、エリザベスのお気に入りダンスの一つだったようだ。

【エリザベス一世の調査 第14段落】  勝利と成功がエリザベスの治世の全体的な印象である。女王自身は「 Gloriana (グローリアーナ)」「 Good Queen Bess (良い女王ベス) 」「 The Virgin Queen (処女王) 」と呼ばれた。高価な衣装や宝石を身につけ(同時代の君主のようにそれらしく振舞うため)、「 progresses (巡幸) 」として知られる地方訪問で、女王はこの印象を国中に植え付けていった。彼女は馬車よりはむしろ乗馬でよく周遊したそうだ。エリザベスは自身の治世の間に少なくとも 25 回の progresses (巡幸)を行っている。

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■エリザベス一世の調査#08 エリザベス 時代の外交的脅威
【エリザベス一世の調査 第15段落】  しかし、エリザベスの治世は、スペインからアイルランド、及びフランスからスコットランドによる数多くの侵略の脅威にさらされた時代の一つであり、かなりの危険と困難があった。 1569 年〜 70 年、北イングランドの大部分は反乱状態であった。特に 1570 年、ローマ教皇の教書のために、エリザベスから臣民の忠誠が離れてしまった。エリザベスの命を狙った陰謀が明るみになった後、彼女はローマ・カトリック教徒に対して厳しい法を可決した。映画では 1554 年からこの辺りまでのエリザベスが描かれている。スコットランドの女王、メアリー・スチュアート(映画に出てくるメアリー・ド・ギーズの娘)が絡んだ陰謀もあった。メアリー・スチュアートは 1568 年に彼女の二人目の夫を殺害し、その殺害に関与したと信じられている男性と結婚したあと、イングランドへと逃れた。有望なエリザベスの後継者であるが、メアリーはエリザベスの囚人として 19 年を過ごした。なぜならメアリーは、 1586 年のバビントンの陰謀ような反乱や暗殺を起こそうと意識を集中させていたからだ。メアリーはまた、潜在的な侵略者であるスペインのフェリペ二世を誘惑していた。 1586 年の手紙の中で、エリザベスはこう書いている。「私の命を奪い、私の王国を崩壊させようと、あなたは画策しました。私は決してあなたを厳しく訴えはしません。」エリザベスが思い切った行動を嫌がったのにも拘わらず、国会と彼女の顧問達の主張で、メアリー・スチュアートは裁判にかけられ、有罪となり、 1587 年に処刑された。

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■エリザベス一世の調査#09 エリザベス スペイン艦隊を破る
【エリザベス一世の調査 第16段落】   1588 年、悪天候の助けもあって、イギリス海軍はアルマーダという約 130 隻のスペイン艦隊の侵略に対し、大勝利を収めた。フェリペ二世はメアリー一世との結婚を通してイングランドの王位を要求する権利があると信じていたので、アルマーダの征服によりエリザベスの打倒とローマ・カトリック教の再建を行うつもりだった。

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■エリザベス一世の調査#10 エリザベス 経済不況
【エリザベス一世の調査 第17段落】 エリザベスの長い治世の間、 1590 年代の特に田園地方では、国家はまた物価の高騰と厳しい経済不況に苦しんだ。アルマーダを打ち負かした後、スペインとの戦争はあまり上手くいかず、他の一連の軍事行動と共に多くの犠牲を払った。エリザベスは行政支出の引き締めを行ったが、後世に大きな負債を残すことになった。エリザベスの治世下に起きた戦争には、 500 万ポンド(当時の金額)以上という王の歳入を上回る金額がかかった。例えば 1588 年のエリザベスの年間歳入合計は 39 万 2000 ポンドである。財政の緊縮と 1588 年以降の長期化する戦争が同時に進行していたにも拘らず、英国議会はそんなに頻繁に召集されなかった。エリザベスの治世には下院はたった 16 回しか開会されなかった。そのうちの5回は 1588 年〜 1601 年においてである。エリザベスは法律制定を拒否する力を自由に行使したが、対立は避け、憲法における英国議会の地位と権利を定義づけようとしなかった。

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■エリザベス一世の調査#11 エリザベス 選択と決断
【エリザベス一世の調査 第18段落】  エリザベスは結婚しないことを選んだ。もし彼女が外国の王子を選んでいたなら、その王子は自身の利益のためにイングランドを外国の政治に引き入れていただろう。(エリザベスの姉のメアリー一世とスペインのフェリペ二世との結婚のように。)また、自国の男性と結婚していれば、エリザベスは派閥間の内部闘争に巻き込まれていただろう。エリザベスは自身の結婚の可能性を外交と国内政治の道具として用いた。しかし、本当の意味において、ヴァージン・クィーンは'結婚していた'のだが、彼女は国家の利益のために個人の幸せを犠牲にした私心のない女性として示された。治世の後半、 1601 年のいわゆる「 Golden Speech 」で、エリザベスは英国議会に向かって演説した。 ' There is no jewel, be it of never so high a price, which I set before this jewel; I mean your love. '彼女は国民の大多数にとても人気があったようだ。

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■エリザベス一世の調査#12 エリザベス 死す
【エリザベス一世の調査 第19段落】  概して、エリザベスはいつも抜け目がなく、必要な時は断固としたリーダーシップを発揮し、国内外における危機の時代を成功へと導いた。彼女は 1603 年 3 月 24 日にリッチモンド宮殿で亡くなり、伝説となった。彼女の即位の日は 200 年間イギリスの祝日であった。

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参考資料:「映画の森てんこ森」映画タイトル集
       http://www.coda21.net/eiga_titles/index.htm
      IMDb
      allcinema ONLINE
      Nostalgia.com
      CinemaClock.com
      The life and times of Queen Elizabeth I
       http://www.elizabethi.org/
      The official web site of the British Monarchy
       http://www.royal.gov.uk/output/Page1.asp
      StreetSwing's Dance History Archives Volta
       http://www.streetswing.com/histmain/z3volta.htm
      Information Please: On-Line Dictionary, Internet Encyclopedia, Atlas, &       Almanac Reference
       http://www.infoplease.com/index.html
      Shakespeare's Life and Times Home Page
       http://web.uvic.ca/shakespeare/Library/SLTnoframes/intro/introsubj.html
      中西輝政(著)「大英帝国衰亡史」

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Text by Sati
coda21「映画の森てんこ森」幸田幸。
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