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 シャイな幸の独り言
コンスタン イザベル・アジャーニの惑い
「アドルフ」を読んで、映画『 イザベル・アジャーニの惑い 』を観て
2004年03月14日日曜日 「シャイな幸の独り言」トップへ
 青年はほんの遊びだった。
 贅沢な暮らし、子どもたち、そしてどこか空虚な日々・・・
 彼女はすべてと決別した。
 フランスから雪のポーランドへ。灼熱の恋の果ては・・・
 『王妃マルゴ』から6年、
 フランスを代表する女優イザベル・アジャーニ最高傑作
 壮大なスケールの愛と感動の文芸大作 !!

 以上は、映画『 イザベル・アジャーニの惑い (2002) ADOLPHE 』のプレス用のカタログにあるコピーの一部だ。(※コピーと画像は、elephant picture inc. より提供)

映画『 イザベル・アジャーニの惑い 』の原作「アドルフ」著者コンスタンとは?
映画『 イザベル・アジャーニの惑い 』のストーリー(※あらすじはネタばれあり)
映画『 イザベル・アジャーニの惑い 』の感想文
バンジャマン コンスタン
バンジャマン・コンスタンの肖像
 幸の好きな女優の一人に、イザベル・アジャーニがいる。
 弊サイト開設の時からの幸の自己紹介にも「イザベル・アジャーニ」を挙げているが、  彼女の名前を冠した映画『 イザベル・アジャーニの惑い (2002) ADOLPHE 』を観て感動して、原作を読み直して又感動した。
 映画『 イザベル・アジャーニの惑い 』は、フランス革命から七月革命までの激動期を生き抜いた政治家であり文学者であったバンジャマン・コンスタン Benjamin Constant (1767-1830)の古典的傑作である心理小説「アドルフ Adolphe 」の映画化作品。完全な原題は、“ ADOLPHE DE BENJAMIN CONSTANT ”だ。
 22 歳で大学を卒業したばかりの前途有望な青年アドルフは、とある小さな町で、ある伯爵の愛人であった 10 歳年上の美しく気高い女性エレノールに恋をする。しかし、一旦彼女を手に入れると、恋の魅惑は色褪せて…。

 映画『 イザベル・アジャーニの惑い 』の原作「アドルフ Adolphe 」を読まずしてこの映画を観ても感動する。原作を読めば、映画の描写や台詞の背景や細部の心理が解かって感動が一層豊かなものになる。

 このページでは、私は、この自伝的小説と言われている原作「アドルフ Adolphe 」の著者バンジャマン・コンスタンについて書いてみる。そして、彼の人生に大きな影響を与えたスタール夫人にも少し詳しく言及したい。

■映画『 イザベル・アジャーニの惑い 』の原作「アドルフ」著者コンスタンとは?

 バンジャマン・アンリ・コンスタン・ド・ルベック Benjamin Henri Constant de Rebecque は 1767 年 10 月 25 日(さそり座)にスイスのローザンヌ Lausanne でフランス系の古い家柄に生まれた。母親のアンリエット Henriette de Chandieu は産後の肥立ちが悪かったのか、息子を産んだ後、 2 週間足らずで亡くなった。 5 歳のころに軍人だった父ジュスト Juste Arnold de Constant が再婚し、以後、父の任地が変わるのに伴って、ヨーロッパ各地を転々とした。その間次々に家庭教師を変えて教育を受け、書物を濫読したコンスタンは、早熟なようで、 12 歳で長編英雄物語「騎士 Les chevaliers 」を書くなどした。初恋は、オランダに滞在中の 13 歳のときであったが、 18 歳から女性遍歴を開始する。

 文芸的な著作は少ないが、「アドルフ」( 1816 )「セシル Cecile 」(未完、1951 )「赤い手帖 Le Cahier Rouge」(未完、1907 )という“自伝三部作”を残した文学者でもあり、国葬で葬儀が行われるほどの政治家であったもコンスタンは、恋多き男性であった。彼と関係のあった女性の数は、十本の指にも収まらない。その中でもメジャー(?)な存在であったと思われる女性を、以下に出会った順に挙げてみる。

*ジョアノ夫人 Madame Johannot
 ベルギーのブリュッセル Bruxelles で恋に落ちた彼女は、コンスタンの女性遍歴の始まりの女性。後に彼女は自殺しているそうだ。

*シャリエール夫人 Madame de Charriere ( 1740-1805 )
 1787 年、コンスタンが 20 歳の時にパリ Paris で出会う。シャリエール夫人は、スイス人に嫁いだオランダ人女性で、文筆家として優れ、 27 歳年下の若いコンスタンの精神形成に大きな影響を及ぼしたと言われる。小説「アドルフ」の第一章で語られる“老婦人”はシャリエール夫人がモデルらしい。

*ミンナ・フォン・クラム Minna von Cramm 
 コンスタンの初婚相手。1788 年にコンスタンが父親に従ってドイツのブルンスヴィック Brunswick の宮廷の侍従となったときに、侍女の一人だった彼女と出会ったようだ。 1789 年、コンスタンが 22 歳の時に結婚する。彼女は美しくなかったそうで、夫婦仲も悪く、 1795 年に離婚。

*シャルロット・ド・ハルデンベルク Charlotte de Hardenberg
 1793 年に、マーレンホルツ夫人だったシャルロットと初めて出会い、短い恋愛をする。 11 年後、デュ・テルトル夫人となっていた彼女と再会し、その 2 年後に二人の愛が再燃。 1808 年、コンスタンが 41 歳の時に彼女と秘密裏に結婚する。コンスタンより 2 歳年下のシャルロットが、最終的に彼の最愛の人となったようだ。「アドルフ」のエレノールのモデルとなった女性の一人。コンスタンはシャルロットと再び愛し合うようになった頃に、「アドルフ」の基となる小説を書き始めた。

*スタール夫人 Germaine de Stael  ( 1766-1817 )
 フランス革命前後の財政改革にあたった、スイスの銀行家ジャック・ネッケル Jacques Necker ( 1732- 1804 )の娘としてパリで生まれた彼女は、母親シュザンヌ Suzanne のサロンの知的で政治的な雰囲気を吸収して育った。 1786 年にスウェーデンの外交官であったスタール=ホルスタイン男爵 Baron Stael-Holstein と結婚。アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ネッケル・バロン・ド・スタール=ホルスタイン Anne Louise Germaine Necker, baronne de Stael-Holstein というのが、彼女のフルネームだ。
 フランス革命に控えめに共鳴していた彼女だが、 1792 年にパリを離れた。1794 年、スイスで妻ミンナと別れたがっている 27 歳のコンスタンに初めて出会う。穏やかに夫と別居した彼女は、コンスタンと親密な関係になる。コンスタンがシャリエール夫人と不和になったのは、スタール夫人との出会いが原因だろう。
 1795 年、コンスタンと共にパリに戻ってきたスタール夫人のサロンは、政治家の間でも知識人の間でも中心的な存在だった。スタール夫人は美しくなかったそうだが、彼女の機知や才能は、男性たちに影響を与え、数々の情事もあった。コンスタンもスタール夫人の尽力で政界に乗り出していく。 1797 年、スタール夫人は娘アルベルチーヌ・ド・スタール Albertine を産む。たぶん父親はコンスタンだ。 1802 年に夫のスタール=ホルスタイン男爵は亡くなり、コンスタンとの結婚に何の障害も無くなったが、スタール夫人は苗字を変えるのが嫌だった。
 ナポレオン Napoleon Bonaparte ( 1769-1821 )に対して精力的に反対していたスタール夫人は、1803 年にフランス追放の命を受け、コンスタンと一緒にドイツに向けて出発した。 1804 年の年末頃にスタール夫人はイタリアへ、コンスタンはパリに戻る。スタール夫人は 1805 年にレマン湖 Leman / the Lake of Geneva 畔のコペ Coppet に落ち着き、サロン活動で人々をひきつけた。
 パリに帰ったコンスタンは、シャルロット・ド・ハルデンベルクと再会し、1806年に二人の愛が復活。 1808 年にスタール夫人にバレない様にコンスタンはシャルロットと秘密結婚をする。 1811 年にコンスタンはスタール夫人と別れるが、それまで年上の愛人と年下の妻との間の板ばさみで苦しんだ。一方、スタール夫人はコンスタンと別れたその年に、自分の年齢の半分ほどの若い役人、ジャン・ロッカ Jean Rocca と秘密に結婚し、 5 年後にもう一度おおっぴらに結婚した。 2 人の間にできた息子は、知能の発育が遅かったそうだ。
 「アドルフ」のエレノールのモデルとなった女性の一人でもあるスタール夫人だが、コンスタンによる「アドルフ」の草稿の朗読を聞いた時、この作品を誉めたそうだ。その余裕は、やっぱりコンスタンの後釜がちゃんといたからかなぁ。
 熱烈な自由思想家のスタール夫人は、フランス・ロマン派の先駆者。その作品には、批評「文学論 De la Litterature consideree dans ses rapports avec les institutions sociales 」( 1800 )や小説「デルフィーヌ Delphine 」( 1802 )、イタリア旅行に触発されて著した小説「コリンヌ Corinne 」( 1807 )などがある。ドイツ旅行の結果生まれた「ドイツ論 De l'Allemagne 」( 1810 )は、彼女の代表作だ。その代表作をナポレオンはフランス・ドイツ二国間の文化や習俗の不快な比較とみなして憤慨し、“反フランス的”という理由で初版( 1811 )の全廃棄を命じた。
 ナポレオンの警察に脅かされ、スタール夫人はロシアとイギリスに逃れたが、1815 年にコペに戻ってきた。スタール夫人のドイツ・ロマン主義に対する熱意が染み込んだ「ドイツ論 De l'Allemagne 」が再発行され、ヨーロッパの思想や文学に猛烈な影響を与えた。
  1817 年にスタール夫人がパリで亡くなった 6 ヶ月後、 1818 年に夫ジャン・ロッカも亡くなった。コンスタンの間の娘だと思われるアルベルチーヌだけが、子孫を残している。

*アンナ・リンゼイ Anna Lindsay
 1800 年 11 月〜 1801 年 6 月にコンスタンと恋愛。美しく、コンスタンより年上で、貴族の外国人の(アイルランド系)愛人であり、二児の母であった彼女も、「アドルフ」のエレノールのモデルとなった女性の一人。

 自由主義的な立憲王制を持論とするたコンスタンも、スタール夫人と同じく、反ナポレオン。そのせいで 1802 年に法制審議院を追放されもした。また、国外追放になったスタール夫人にも付いて行った。 1815 年にナポレオンがエルバ島を脱出した際も、激しく非難した。ところが、同年、パリに復帰した皇帝ナポレオンに宮廷へ招かれると、あっさり宗旨替え。百日天下(ナポレオン一世が、 1815 年流刑地エルバ島を脱出してパリに入城し再び政権を握ってから、ワーテルローの戦いに敗れ退位するまでの期間をいう)のあと、イギリス・プロイセンとの和平交渉に奔走したコンスタンは、国王ルイ 18 世により一時追放され、イギリスに渡った。

 しかし、 コンスタンは、1816 年にロンドンで「アドルフ」を出版してフランスに戻り、自由主義的立憲王制論者として政治活動を再開。 1819 年には国会議員となった。 1830 年の 7 月革命( 1830 年 7 月、パリ市民が起こしたブルボン復古王朝打倒の革命。シャルル一〇世の反動政治が終わり、大ブルジョア中心のルイ=フィリップによる立憲君主制〔七月王政〕が成立。)で重要な役割を演じた後、 12 月 8 日に 63 歳で亡くなった。

 コンスタンには政治論や宗教論のほうが文芸作品よりも著作が多い。コンスタンは、文学より、政治が本業だと思っていたのではないかと幸は思っている。そんな彼が“自伝三部作”という文芸作品を著したのは、政界を追放され、スタール夫人とシャルロットの間で悶々としていた頃。また、その間に、コンスタンは膨大な「日記」も書いている。もう若くなく、大した職もなく、人生の袋小路にあるコンスタンは、冷静に自己を見つめなおすためにこれらの文芸作品を著すことにしたのかな。それとも…。

 あくまでもフィクションとして完成されている「アドルフ」だが、主人公のアドルフのモデルは紛れもなくバンジャマン・コンスタンその人。アドルフ Adplphe という名の語源は、ギリシャ語の“兄弟”という意味の adelphos だそうで、アドルフはもう一人のコンスタンのような存在だ。ヨーロッパのサロンの花であったスタール夫人の元愛人コンスタンの実体験が基になっている「アドルフ」の出版は、かなり話題になったに違いない。英語訳もドイツ語訳もその年の内に出版されている。今でいう暴露本のような本の出版を機に追放先からフランスに戻ってくるなんて、コンスタンは中々のやり手だと思う。下野していた間にだけ自伝的小説を書いていたのは、もしかしてこれを狙っていたの?これも彼一流の政治的手腕の一角かもしれない。

※参考資料:
 The Internet Movie Database (IMDb)
 allcinema ONLINE
 集英社ギャラリー世界の文学6 フランスI 
 LoveToKnow Free Online Encyclopedia
 Badosa.com
 http://www.kirjasto.sci.fi/stael.htm
 infoplease
 BENJAMIN CONSTANT DE REBECQUE
  http://www.canaktan.org/politika/liberal_demokrasi/dusunurler/constant.htm

Text by Sati
coda21「映画の森てんこ森」幸田幸。
coda_sati@hotmail.com
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