シャイな幸の独り言

カメルーン騒動
世界地図
★ Republic of Cameroon ★
※文字サイズは「小」に設定して最適環境でご覧下さい。
  「もうあの、新しい朝が来ましたけれども…えー、ボンソワール(こんばんは)かな?」そして「ジュ・マペール・カメルーン(私の名前はカメルーンです。)」と歓迎セレモニーで演説。TVに映っている大分県中津江村村長はめちゃオチャメです。

 カメルーンの身勝手な遅れ(カメルーン側は「不可抗力」と弁明)の苛立ちもおくびにも出さずに、この一週間、いやカメルーンのベースキャンプが決まった時点からの疲労困憊でしょうけどこのウィット。カメルーンの選手も顔一面に笑顔と歓声と拍手。これこそ国際親善!優しい日本人を国際的に宣伝した素晴らしいシーンです。

 ようこそW杯キャンプ地・村内放送でフランス語講座!と、サッカーのワールドカップ(W杯)でカメルーンの準備キャンプ地となる大分県中津江村。村内放送でフランス語講座が流れるらしい。幸は今年の3月からフランス語を勉強していますのでとても興味があります。余談ですが、TVに映ったカメルーン選手の緑色のウィンドブレーカーの背に「CAMEROUN」とありましたが、英語では「CAMEROON」と書いてあります。

 五日遅れで、W杯のカメルーンチームが大分県中津江村に入りました。あまりサッカーの見ない幸は、連日TVでカメルーンの到着遅れを報道するものだから「どうなっているのだろう?」と気になりました。TVすぽるとでニュースは見るから少しぐらい知っています。ワールドカップは確か5月31日から開催されるのですよね。

 <大分県中津江村の坂本休(やすむ)村長も22日夜の「ベースキャンプ実行委員会」で、到着日の遅れに初めて不快感を示した。「私どもには理解できない。向こう様の組織の力学とか美学とかがあるのだろう。歓迎式典の準備に努力してきた中学生や高校生の予定が流れてしまったことは残念。村民の方もカメレオンとかカルメンではなく、カメルーン共和国と理解できるようになり、私としても(国際交流を)楽しみにしていた」それでも、「カメルーンさんが村を選んでくれたのは、心温まる人情と素晴らしい施設があったからと聞いている。今まで同様の信頼関係で歓迎してほしい」と、村民に呼びかけた。(2002 年 5月 23日「夕刊フジ」)>

 カメルーンにとっては「遅れている」という気はあまりないのではないでしょうか?
 よく聞きますが、世界には、国によっては電車が時間通り来ないとか、約束しても1時間は平気で遅れてくる国民もあるらしいとか、予定は未定とか、約束は破るためにあるとか、といった具合です。

 真意のほどはどうか知りませんが、パリを発つ前に選手のボーナスの揉め事とか、ビザを持っていない選手がいたとか、選手の遅刻を待っていたとか、遅れたと思った選手が関空を経由して福岡に先に到着していたとか。「ええっ!?ムチャクチャヤやなー、この人たち!」。W杯のことについてほんの常識的なこと以外何も知らなかった幸の耳に、これは面白いニュースです。

 以下に幸がニュースから知り得たカメルーン一行の足取りを書きます。情報入手は共同通信・読売・日刊スポーツ・夕刊フジ・サンスポの新聞やウエッブニュースからで、幸なりに解釈して書いています。

▼5月21日---パリのシャルル・ドゴール空港でボーナス(報奨金)闘争で出発せずに待機。
▼5月22日午前8時過ぎ---カメルーン航空のチャーター機は、パリのシャルル・ドゴール空港を出発した。そこには、大阪ガンバ「浪速の黒ヒョウ」の異名を取るエムボマらカメルーン代表のジョカトーレが乗っている。
▼---給油のためアフリカのエチオピアとインド・ムンバイに立ち寄った。
▼---ムンバイでも、予定より9時間出発が遅れた。
▼5月23日午前7時10分すぎ---中継地のインド・ムンバイ(ボンベイ)から福岡空港に向けて出発した。
▼5月23日午前9時(同午後11時)---タイ国バンコクのドン・ムアン国際空港に緊急着陸。通過するカンボジア、ベトナム、フィリピンの上空飛行許可を取得していなかったため、ドン・ムアン国際空港で飛行許可申請手続きを行い、7時間以上足止めを食った。
▼5月24日午前3時すぎ---カメルーンキャンプ地の大分県中津江村入りした。
 宿泊先の鯛生スポーツセンターでは、未明にもかかわらず村民たち約150人がカメルーンの国旗を振って出迎えた。

 以上がカメルーン国際的遅刻騒動記の幸の理解した顛末です。中津江村1362人の村民が待ちに待った五日間でした。村人たちは遅れも気にせずに温かく迎え入れたとか。中津江村民は寛大で正に、「朋あり、遠方より来たる。亦楽しからずや」です。これこそ国際親善・インターナショナルですね。

 当初、19日にキャンプ入りする予定だったのも驚きです。もしこれが日本なら、世界の人々が国際的な失態と、日本を叩いて攻め立てるほど格好の材料でしょう。

カメルーン共和国
 失礼ですが、カメルーンってアフリカの小国?で首都がどこか、国の元首は大統領なのか首相なのか王様なのかも知りません。アフリカの北、南、中央のどこなのか?言葉は何語?国の正式名?国旗?も全く知りません。スミマセン。

 カメルーンってフランスの植民地だったのでしょうか?選手たちの話している言語はフランス語でしたよね。でも公用語が英語と仏語だったら国民の学習レベルは高いのでしょうか?
 それで以下にカメルーンの勉強をしました。下に日本の外務省のデータを引用しました。少しその国についてデータ学習して、どんなものの考え方をする国か少しでも判ればいいかなーって思います。これも所謂一つの国際親善・国際交流ですよね。

 W杯日本韓国同時開催という大きなイヴェントは何もかも呑み込んで、やってきます。

 元々FIFA(Federation Internationale de Football Association 「フェデラシォン・アンテルナショナール・ドゥ・フットボ−ル・アソシアシォン」)という組織は、サッカーを通して国際親善と経済の発展を目指しているのでしょうから、カメルーンの遅れのお陰で今回の大分県中津江村も大きく宣伝できて経済効果も大いにあったという見方や、その陰でセネガル代表のキャンプを受け入れた静岡県藤枝市では担当課長が「疲れた」という遺書を残して自殺するという痛ましい事件も起こりました。

 それにしても面白いチームです、カメルーンって。時間の流れがゆっくりとしていながら金銭感覚が発達している。これもフランス的?これってお国柄?

 到着してからのおまけ話も事欠きません。カメルーンチームは4時55分佐賀県鳥栖市に向けて出発。ここでも1時間遅れたらしい。
 昨日5月24日スポルトで見たカメルーンとサガン鳥栖の試合で7時開催が1時間遅れで8時になったとか。観客からブーイングがあったとか?いいことですよね。ハッキリと日本人が自分の意思をあらわにして表現することは。日本はこのサッカーの共同開催では、韓国に学ぶことが多いでしょう。
 詰めかけた観衆一万七千人で鳥栖スタジアムはほぼ満員。試合はカメルーン側の申し出を受け入れて30分ハーフで行われました。長旅で疲れているからでしょうか。試合結果はこの際どうでももいいことでしょうが、1対0でカメルーンが勝ちました。

 カメルーンはFIFAにとってなくてはならない存在でしょうか。
 幸にとっては中津江村の坂本休(やすむ)村長が一番イケてました。
 「中津江村に遅れたので次のキャンプ地富士吉田市に遅れても仕方がないかと…。」カメルーンサッカー連盟のマホメド・イヤ会長の弁。そして、「村の熱狂的な歓迎に心打たれたのか村での滞在期間を延長する可能性を示唆したらしい。」とTVの解説。
 これって聞こえはいいですけど「もう移動するのはイヤ。ゆっくり流れる時間を楽しみたいボクたちはマイペースだよーん。それに富士吉田市って都会だからどう歓迎してくれるやら?もうここでじっとしていたい。え?大分県高校選抜チームとの試合?そんな約束あったっけ?」というカメルーンチームの声が聞こえてきそう?って思うのは、高校のとき世間知らずで出不精!幸の、これも勝手な想像ですよね。

以上。幸田幸 2002年5月25日

カメルーン共和国の一般事情 2002年1月1日 現在
  <中部アフリカのバイリンガル国家>
1.面積 475,442km2
2.人口 1,469万人(1999年)
3.首都 ヤウンデ(114万人/97年)
4.人種 バンツー系、スーダン系、キルディ系、バミレケ族、バムン族他
5.言語 フランス語、英語(共に公用語)、その他各部族語
6.宗教 カトリック35%、プロテスタント25%、イスラム教20%、その他伝統的宗教
7.略史
1960.1. 仏領カメルーン独立
1960.5. アヒジョ初代大統領就任
1961.10. カメルーン独立、カメルーン連邦共和国成立。
1972.5. 連邦制を廃し、「カメルーン連合共和国」に。
1982.11. アヒジョ大統領辞任。ビヤ首相、大統領就任。
1984.1. ビヤ大統領再選。国名を「カメルーン共和国」に。
1988.4. ビヤ大統領再選
1990.12. 複数政党制導入
1992.10. ビヤ大統領再選
1996.1. 地方選挙で野党側が勝利
1997.5. 国民議会選挙
1997.10. ビヤ大統領再選
政治体制・内政
  <ビヤ大統領の再選>
1.政体 共和制
2.元首 ポール・ビヤ大統領(Paul BIYA)
3.議会 一院制
4.政府 (1)首相 ピーター・マファニー・ムソンゲ
(2)外相 フランソワ・ザビエ・グベユ
5.内政  1982年11月アヒジョ前大統領の辞任に伴い、憲法規定に則りビヤ大統領が就任、単一政党たる「カメルーン人民民主連合(RDPC)」を基盤とした堅実な経済運営により、内政の安定に努力。88年4月、ビヤ大統領は大統領選挙において再選を果たし、政権基盤を強化した。90年に入り社会・経済開発に対する諸外国よりの支援の必要性及び国内の民主化要求に応えるため、ビヤ大統領は同年6月複数政党制導入を含む民主化改革を実施する方針を示し、同年12月議会において正式に決定。92年3月、複数政党制下で初の国民議会選挙が実施されるとともに、10月の大統領選挙ではビヤ大統領が再選された。96年1月、一連の選挙の皮切りとなる地方選挙が実施され、野党が大勝したが、97年5月の国民議会選挙では与党RDPCが過半数の議席を確保。又、同年10月の大統領選挙では、主要野党が右選挙をボイコットしたものの、大きな混乱はなくビア大統領が再選(任期7年)を果たし、有力野党(UNDP)との連立政権を発足させ、その後の政局は安定している。
外交・国防
  <欧米寄り非同盟路線>
1.外交  東西いずれの国の影響力も受けず独自の立場を貫くとの理念の下に非同盟路線を維持しているが、旧宗主国フランスとの結びつきは依然として強い。
2.軍事力 (1)予算 156百万ドル(1999年:2000年版ミリタリーバランス)
(2)兵役 志願制
(3)兵力 総兵力28,000人(陸軍14,100人、海軍2,500人、空軍1800人、憲兵隊9,600人)
経済
  <農業を基盤とする経済再建を目指して>
1.主要産業 農業(コーヒー、ココア、綿花、バナナ、栗)
林業(木材)、鉱工業(石油、食品加工、織物、木材加工セメント)
2.GNP 91億8,700万ドル(1999年)
3.一人当たりGNP 580ドル(1999年)
4.経済成長率 5.0%(1998年)、10.0%(1999年)、9.0%(2000年)
5.物価上昇率 3.1%(1998年)、0.9%(1999年)、1.2%(2000年)
6.失業率 不明
7.総貿易額 (1)輸出 22.16億ドル(2000年)
(2)輸入 14.64億ドル(   〃  )
8.主要貿易品目 (1)輸出 原油、ココア、コーヒー、綿花(2000年)
(2)輸入 資本財、食糧(2000年)
9.主要貿易相手国(2000年) (1)輸出 伊、西、仏、蘭
(2)輸入 仏、ナイジェリア、伊、米、独
10.通貨 CFAフラン
11.為替レート 100CFAフラン=1仏フラン(1994年1月12日以降)
12.経済概況  94年1月のCFAフラン切り下げを機に、それまで停滞していたカメルーン経済は、石油生産量の減少にも拘わらず堅調に推移し始めている。97年8月にIMFと合意した拡大構造調整ファシリティー(ESAF)の実施状況は概ね順調であり、ドナー側よりもその経済状況の改善が認識されている。2000年10月には、HIPCイニシアティブが適用され、今後政策面においては保健、教育・社会インフラ分野の改善に力を入れていくこととなる。
経済協力(単位 億円)
  <無償中心になる傾向>
1.我が国の援助実績 (1)有償資金協力(99年度まで、ENベース)  110.89
(2)無償資金協力(99年度まで、ENベース)  111.86
(3)技術協力実績(99年度まで、JICAベース) 22.54
2.主要援助国(1998年) (1)フランス (2)ドイツ (3)カナダ
二国間関係
  <在カメルーン大使館の開設>
1.政治関係  1960年1月カメルーン(同月独立)をわが国が承認して以来、主にわが国よりの経済協力を通じて、関係は良好である。カメルーンは1988年にわが国に大使館を開設、わが国は1991年1月カメルーンの首都ヤウンデに大使館を開設した。1999年5月、日・カメルーン友好議連が発足(会長:鈴木(宗)議員)。
2.経済関係 (1)対日貿易
   (イ)貿易額(2000年 単位:百万円)
      輸出  564
      輸入  2,310
   (ロ)主要品目
      輸出  木材、実綿、木材(平削り)、カカオ豆
      輸入  乗用自動車、貨物自動車、タイヤ
(2)我が国からの直接投資(1951〜2000年度累計 単位:百万円)
   件数6件、金額1,276
3.文化関係  カメルーンに対し、体育機材、L.L.機材、放送用ソフト、大学病院への電子顕微鏡供与を行っている。
4.在留邦人数 40人(2000年10月1日現在)
5.在日当該国人数 100人(1999年12月末現在)
6.要人往来
(1)往
1960.1. 藤枝特派大使派遣
1976.1. 金丸特派大使派遣
1985.7. 森山政務次官
1987.7. 二階俊博衆議院議員
1988.11. 政府派遣経済ミッション派遣
1998.3. 片倉アフリカ開発会議担当大使
(2)来
1973.4. アヒジョ大統領(非公式)
1978.6. ダウダ経済計画大臣
1986.12. ムプマ郵政・電気通信大臣(非公式)
1989.2. シアン国民議会議長(大喪の礼)
1989.11. ボーボー対外関係大臣(外務省賓客)
1990.4. ツァンガ・アバンダ産業商業開発大臣
イトエ観光大臣(花博賓客)
1990.11. ビヤ大統領(即位の礼)
1991.10. ング農業大臣、チュタ・ムーサ計画・国土整備大臣
1992.2. オウオナ商工業開発大臣
1992.3. イトエ観光大臣(ワシントン条約締結国会議)
1993.10. コドック計画・国土整備担当国務大臣(TICAD)
1994.3. コドック計画・国土整備担当国務大臣
1996.4. ベロ鉱業・エネルギー・水資源大臣、チロマ運輸大臣
1998.10. ンディオロ公共投資・国土開発大臣(TICAD II)
2000.2. エトゥンディ国民教育大臣
2000.5. ビドゥング・ムクパット青年・スポーツ大臣(サッカー・コンフェデレーションズ・カップ)
2001.12 イエンベ公共投資・国土開発担当大臣(TICAD閣僚レベル会合)
2001.12 オゥオナ国民教育大臣(無償資金協力案件入札立合)
2001.12 エルング外務次官(中堅指導者招聘)
7.二国間条約・取極 1962.9.25 貿易取極締結
【参考資料】
 ※2002年 FIFAワールドカップTMオフィシャルサイト
  http://fifaworldcup.yahoo.com/jp/
 ※2002年FIFAワールドカップ日本組織委員会 (JAWOC)ホームページ
  http://www.jawoc.or.jp/j/index.html
 ※カメルーン中津江村キャンプ推進本部
  http://www.vill.nakatsue.oita.jp/camp/camp.html
 ※J'aime le cameroun.−日田地域ワールドカップ地域振興会議−
  http://www2.pref.oita.jp/11140/cameroun/
 ※FIFA公式サイト(英語)
  http://www.fifa.com/
 ※日本国外務省ホームページ
  http://www.mofa.go.jp/mofaj/
 ※日本国外務省ホームページ内の世界の国旗
  http://www.mofa.go.jp/mofaj/world/kokki/
 ※姫路獨協大学アフリカ情報ネットワーク事務局
  http://africa.himeji-du.ac.jp/cameroun/home.html
 ※2002年FIFAワールドカップ大阪市開催推進委員会
  http://www.2002osaka.com/index2.php
 ※les Lions Indomptable(不屈のライオン)
  http://isweb41.infoseek.co.jp/sports/go_link/
 ※共同通信社 http://www.kyodo.co.jp/kyodonews/2001/worldcup/
 ※読売 http://www.yomiuri.co.jp/
 ※日刊スポーツ
  http://www.nikkansports.com/osaka/osc/02w_cup/camp/08.html
 ※夕刊フジ
  http://news.lycos.co.jp/topics/sports/2002.html?cat=1&d=24jijiF859
 ※サンスポ http://www.sanspo.com/soccer/02worldcup/
 ※時事通信社 http://topics.msn.co.jp/home01.htm
coda_sati@hotmail.com
「とれ幸」へ 「映画の森てんこ森」へ
© 2002 Sachi CODA at Eigano-Mori Tenko-Mori, CODA21. All Rights Reserved